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洋楽の歴史

従来の「ポピュラー音楽史」とは…
日本では西洋からきたクラシック以外の音楽を洋楽と呼びます。その歴史は下記の視点から書かれています。
1:「ヒット曲」の資料として。大衆は、メディアが公開した製品を買います。メディアとは、レコード会社やエージェントから広告、宣伝のために大金を受け取って、アーティストの情報を公開します。使われる金が多ければ多い程、公開する幅が広まるわけです。これがメディアの役割です。つまりメディアはあらゆる手段で製品をマーケットに売り出すわけで、製品の売れ行きはマーケティング次第なのです。あなたに誰かが数百万ドルを投資したらこのあなたも間違いなくチャートインできてしまいます!たとえ歌や楽器が上手くなくてもです(笑)。こうしてあなたの名前はこのカテゴリーの「 ポップス史」に残るでしょう。おわかりでしょうか、殆どの「ポップス史」は実のところ、ポップスあるいはロックそのものではなく、音楽産業についての情報なんです!ミュージシャンのプロフィールには必ず○○はいつビルボードにチャートインしたか、何回チャートインしたか、どの位までランクインしたか、等が書いてあり、それがミュージシャンの全てをあらわす。ロックの音楽史ではなく、実際ではアーティストの収入と利益とマーケティングのデータ、と呼んだ方が適切でしょう。ミュージシャンを芸術家ではなく企業として扱っているのですから。
2:国民色の強い 洋楽史があります。ヨーロッパでは誰もがムーディー・ブルースやバークレー・ジェームス・ハーヴェストを知っていますが、CCRあるいはイーグルスのようなバンドを知らない人が多い。日本はどちらかというと米国寄りですが、その中でも特にブラック・コンテンポラリー、ジャズの情報が多いため、レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダーは誰でも知ってますが、ジョニー・キャッシュやジミー・バフェットを知らない人が多い。日本人だけが書いた洋楽史も、米国人だけが書いた洋楽史も、いずれ偏っているわけです。
3:パーソナル・ヒストリー・オブ・ポップス。特定のアイドルを聴いてそこから遡る洋楽史。好きなアーティストのアルバムを全て聞き終わったら、今度はそのアーティストが他で参加しているアルバム、そのアーティストが影響を受けた連中のアルバムを聴いて知識を増やす方法。1−3までの中では一番良い洋楽史ですが、レッド・ツェッペリンから遡った場合とドゥービー・ブラザーズから遡った場合とでは、洋楽史がかなり変わってしまうので、これも用心するべきです。とにかく私はラジオっ子でした。自分のステレオを持ってなかったので、仕方なくラジオ鑑賞を聴きながら寝るのでした。特に聴きまくったのは70年代の後半。英国、米国とドイツのラジオ放送を集中的に聴いた事にことによって洋楽に慣れ親しみました。

米国TOP40、英国シングルチャート、そしてドイツのヒットパレードのランキングを追いながら、スター達のゴシップ雑誌も購読してました。そのうちギターを始めた事によって、ブルースとロックを一生懸命に聴くようにもなりした。ヨーロッパとアメリカで長期滞在したのち、米黒人と結婚して子供を産みました。そしてその繋がりで黒人との共演が増えました。しかし、私自身は子供の頃、クラシックバイオリンを弾いていたので、ルーツはクラシック音楽です。今では無国籍、無差別に良質な音楽を選び抜いている、そんな私です。 偏った洋楽史から脱出して、究極の『真実』を見つけだし、知識の巡りを良くしたい限りです。
1:たとえBGMであっても全ての音楽を意識して聴くようにする。「流行ってる曲ってしばらくすると繁盛しなくなる。どうして?」というふうにアナライズしてみる。
2:知識はイモヅル式にどんどん増やす。
3:イマサラでも名作を買って聴く(そしてできれば歌のメロディーぐらいは覚える)。
4:オリジナルを探るのが一番(カヴァーのオリジナル、サブジャンルの元ジャンル、アーティストのルーツetcを調べる)。
5:できるだけ王道の音楽を聴いてほしい。
6:1〜5には古過ぎてよくわからないものもあるかもしれないけど、「人生の教科書」であることを知って下さい。毎日のビタミンとミネラルとして本物の音楽を学んでください。

ポピュラー音楽史には今まで6回の転機がありました。1955年、チャック・ベリーが「ロックンロール」を発明したことは誰でも知っていますよね。二回目は1966年、ボブ・ディラン、フランク・ザッパ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド他が音楽シーンを革命的に変えました。1976年、イギリスでパンクが生まれました。1987-88年、ピクシーとフガージーなどのインディーズアーティストが生まれました。2001年、デジタル楽器が多用されるようになりました。今書いた年の各アーティストは非常に革命的なこと起こしたのです。その前後はコマーシャル的なバンドが、前者の発見を採用して売りあげて、コマーシャリズムに乗っかる、という仕組みになっています。常に商業的なアーティストが、創造的で革命的なアーティストのアイディアを盗み、うまく商業化させてきたのです。

6回の転機は米国社会ともリンクしています。アラバマのバスで黒人女性ローザ・パークスが白人に席を譲らなかったため逮捕され、人権運動がはじまったのは1955年でした。反戦運動、ドラッグカルチャー、ヒッピー・ムーヴメントが始まったのは1966年でした。1974年はヴェトナム敗北、ウォーターゲート・スキャンダルとオイルショックの年でした。80年代には、ソ連との核兵器争いの最中にスペースシャトル「チャレンジャー」が爆発、よってアメリカ合衆国の西部開拓が終わりました。2001年のテロ攻撃によって米国の不安はより深刻になりました。2008年、米国の金融危機とともに、資本主義社会が究極の危機を迎え、初の黒人が米国大統領に選ばれました。
ロック・ヒストリーはこの転機なしでは考えられないでしょう。

ポピュラー音楽とはレゲエ、カントリー、ブルース、ラテン、サルサ、サンバ、シャンソン、世界各国の民族音楽etc…ジャンルがありすぎてきりがないので、ロックとポップスを中心に話します。また、ロックやポップスのルーツとサブジャンルに関しては色んな名付け方があるので、とりあえずあまり気にしないで時には「ロック」、時には「ポップス」あるいは「洋楽」と呼ぶことにします。
通常、ロックのヒストリーはカントリーとリズムブルースから生まれた、と言われますが、今のロックはサンプリング技術、エレクトロニック、デジタル、コンピューター、エスニック音楽等の総合化に聴こえます。テクノロジーの進化、他民族のミクスチャーが現在のロックを生んだと言えます。アフリカンアメリカンとアングロアイリッシュだけでなく、多民族が混ざり合って技術的な進化があってロックが発展して行きました。技術の開発が始まったと同時ということは、1900年~あたりからということになりますが、精神的には、もっと以前からでしょう。ロックはアバンギャルドとポピュラー音楽の間から生まれたわけですから、たぶん19世紀末からロックヒストリーは始まっているのです!
レコーディングとマイクの進化はポピュラー音楽をここまでポピュラーにした大きな要因です。1925年、ミルス兄弟が「バーバーショップ(床屋)・ハーモニー」というサウンドを貢献し、メロ・ラジオ局ではヘヴィ・ローテーションされ、数多くのヴォーカル・グループが 生まれました。1926年にビング・クロスビーが新型マイクで華やかな歌の技術を披露しました。「ロックンロール」は1922年、つまりチャック・ベリーが4歳だったころに誕生したようです。ブルース歌手トリクシー・スミスの「マイ・マン・ロックス・ミー」が初のロックンロール・レコードだと言えます。1934年、ロマックス親子が南部を旅しているあいだ、ゴスペル・ジャンル「ロッキン&リーリン」と出会いました。それこそがロックンロールそのものだったと言われます。
テクノロジーのおけがで、上記の人物をあなたがたとえ知らなかったとしても、現代のポピュラー音楽のファウンデーションだと信じて下さることでしょう。クラシック音楽の作曲家はこの点、たいへん不幸でした。クラシック時代には『レコーディング商業』、『ラジオ局』、『エージェント』などといった、作曲家又は演奏家を売りこむ企業がありませんでした。クラシックの音楽家の殆どは死後になって発見されました。もちろんこれはアジア、アフリカ諸国の音楽に関しても言えることですが、クラシック、昔の民族音楽なしではポップスは考えられません。クラシックや中東の音楽がポピュラー音楽に影響を与えた、という事実の証拠ができたのは、レコーディングが開発されたおかげです。 私たちがある時代までの音楽をあまり知らない、知ってもあまり評価できない大きな原因は録音の質の悪さのせいでもあります。
1931年、ジョージ・ビーチャムがリッケンバッカーという初のエレキギターを製造しました。当時の製品群のボディーはアルミニウムのダイカストやベークライトで作られていました。これはドイツ人の創始者のアドルフ・リッケンバッカーが金物工場を既に経営しており、これらの設備を使って製作できたからです。
1953年、フェンダー・エレクトリック・インストゥルメンツ社の販売代理店だったラジオ&テレビジョン・イクイップメント社の経営者のF・C・ホールがリッケンバッカーを買収しました。
1930年代に、電子オルガンはすでに完成していましたが、ローレンス・ハモンドは軽量かつ小型で、どこでも正確な音程で演奏出来るようなオルガンを1934年に作りました。それは高価なパイプオルガンを設置することができない教会に購入され、ゴスペル音楽とともにその道を歩み始めることとなりました。ハモンドオルガンを身近に感じて育った子どもたちがジャズなどのミュージシャンとなり、一部のジャズプレイヤーはピアノに代わる選択肢としてハモンドオルガンを演奏するようになりました。ハモンドオルガン奏者としてジミー・スミスをはじめとするたくさんのミュージシャンがポピュラー音楽に影響を与え続けることになります。
1921までには米国でのレコード・セールスは年間1億6千万枚、そのほとんどは「 ティンパンアレー」の出版物でしたが、マーケットはあちこちへ広がります。シカゴではタレント事務所MCA、ドイツでは海外レコードのディストリビューション会社、米国ではラジオ・コーポレーションRCA他47の局、イギリスではレコード会社Decca、EMIなどのレコード会社が設立され、ここで1931年に世界最大のレコーディング・スタジオ「アビィ・ロード」が開設されたのです。
1933年、戦争の影響でレコード会社が崩壊してラジオプログラム『ヒットパレード』が始まり、ロイ・アカッフがナッシュビルの大スターになり、1939年、ナッシュビル日角グランドオールオプリーがライマンオーディトリアムに移って全米のネットワークを日r下ました。1940年はディズニーのファンタジアで初のステレオサウンドが公開されると同時に映像ジュークボックスができましたが、後者は80年代のMTVで再活用されることになります。
名プロデューサー、サム・フィリップスは40年代にアラバマ州ラジオ局マッスルショウルズで黒人&白人系R&Bの音楽を紹介するオープン・フォーマットなDJになって出世しましたが、その前には、テキサス州のヒルビリー・ブルースとウェスタン・スウィングのバンドのプロデュースに力を入れていたのです。
ジャズ、リズム&ブルース、そしてロックンロールをここまでポピュラーにした人物はユダヤ系起業家、レオ・ミンツとアレン・フリード。善くも悪くも、この二人ナシでは今の音楽シーンは語れない、ということです。

クラシック音楽もポップスの発展に大きな影響を与えています。狭い意味の音楽だけでなく、テクノロジーやメディアを通してポップスの可能性が広がる前兆が1906年から始まっています。
タディウス・ケーヒル博士が 初の電気楽器を開発しました。 電流を,正確に計算された不変の数での振動に変えることを可能にする巨大な機械を組み立てました。音の高さは振動の数次第で、希望の数に「設定」されたらオクターヴの無限の段階は単に,四分円の目盛りに対応するレバーの操作によって設定されるだろうと考えて テルハーモニアムという当時7トンも重いハモンド・オルガンの一種を開発しました。そこからの音を電話線のようなものに繋げてホテル、劇場やレストランなどの公共の場でみんながバッハ、ショパン等を楽しめるようにと、今で言う『ストリーミング・メディア』への第一歩を踏みました。
1927年に、ドイツの作曲家クルト・ヴァイルと脚本家ベルト・ブレヒトがオペラ、ジャズ、フォークの合体『三文オペラ』を公開しました。それはヴァイルの最も有名な歌、「マック・ザ・ナイフ(匕首マッキーの殺し歌)」を含んでいて、ジャズにおいてはあまりにも多くのカヴァーがあるのですが、ヴァイルはドイツよりもアメリカでの評価が高く、彼の曲はルイ・アームストロング他たくさんのミュージシャンにカヴァーされました。1907年にピアノのヴィルトゥオーゾ,理論家,指揮者フェルッチョ・ブゾーニが著書”新音楽美学覚え書”で不協和音と電気音楽は未来の作曲の主体になるであろうと予言しました。1913年にイタリア未来派の画家・作曲家・楽器発明家ルイジ・ルッソロ氏が著書『騒音芸術』で20世紀の音楽はノイズ・サウンドになることを予言。電子音楽の最初の理論家として認知され、未来主義の音楽を作曲したのち、「古典的モダニズム」と称する画風で描きました。1916年にはアメリカのアイルランド難民、ピアニスト、作曲家、理論家ヘンリー・コウエルが初の、倍音の効果音だけを使ったカルテットの生演奏を実現しました。メキシコ、インド、中国、日本とタヒチ音楽の研究家で世界各国のポリリズムとモードのパイオニアです。同性愛者であった彼は道徳の有罪のためサンクエンティン刑務所で監禁のあいだも、沢山の未来的作品を書き続け、フォーク音楽家シドニー・ロバートソンとの結婚のおかげで 誓言され自由な身になりましたが、警戒心が強く、ラジカルな発言を一言も言わなくなりました。しかし彼こそがワールドミュージックを最初に広めた人、そして ガーシュウィン、バート・バカラックからジョン・ケージまでの数多くのジャズ、ポップスとアヴァンギャルドの作曲家の大師匠だったことは間違いありません。 1920年にフランスのピアニスト、エリック・サテイーが「家具としての音楽」、「聴かない音楽」等の『家具の音楽』の作曲によって初めてアンビエントというジャンルを作りました。主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素でした。

商業としてのポップス

ロック(ンロール)はリズム&ブルースとカントリーの混血として生まれたのでしょうか?正確に調べてみましょう。もっとたくさんの重大な要素が入り混ざっているはずなので…その一つ目が、商業社会。ポピュラーミュージックが盛んになった一番大きな要因は商業の力なのです。1892年にポピュラーミュージックが初めて商品化されました。 というのは、当時の「流行歌」が譜面(シートミュージック)として出版されました年です。 場所は、「ティンパンアレー」という呼称で親しまれている、ブロードウェイと6番街に挟まれた一角です。レコードの普及前である当時の音楽に関する主な商品は楽譜で、ここで楽譜出版社、演奏者のエージェントが集まりました。その時期に発売されたものはブロードウェイのミュージカルの音楽に関係する出版物です。
1914年に 同年、米国版音楽著作権団体「アメリカン・ソサイエティー・オブ・コンポーザーズ」ASCAPが創設されました。初めて黒人シンガーのブルース曲(ハート・ワンド「ダラス・ブルース」とが出版されました。同年、白人による「ミュージカル」(ジェローム・カーン氏による音楽、劇とバレーを合体させたもの)も出版されました。こうして黒人音楽としてブルース、白人音楽としてミュージカルというジャンルが生まれました。こうして米国のショービジネスが生まれました。これをヴォードヴィルを呼びます。米国においての舞台での踊り、歌、手品、漫才者はヴォードヴィリアンと呼ばれます。イギリスでのミュージック・ホールに該当するヴォードヴィルはポップスの歴史の中で重要な位置を占めています。

ローマックス

ティンパンアレーの商業社会の裏に、ロックに決定的な影響を与える出来事がありました。アメリカン・フォーク・ミュージックの初出版です。音楽研究家ジョン・ローマックス親子はアメリカ各地に残る貴重なフォーク・ミュージックを求めて、南部を中心に旅を続けていました。大きなテープ・レコーダーをかついで、各地のジューク・ジョイントやクラブのようなライブ、聖歌隊の歌が聴ける教会、刑務所、家々の軒先や人々が働きながら歌っている畑を訪ね歩いていました。ローマックス親子は旅先で数多くの貴重な音楽を録音保存し、忘れられようとしていた重要なアーティストを発見しました。
1910年に、「カウボーイ・ソングス&フロンティア・バラッド」が出版されました。 カウボーイの歴史は1860年、合衆国の鉄道が敷かれ始めるころまで遡ります。カウボーイの暮らしは、 荒れ果てた平原のどまんなかで 朝から晩まで牛を追う、ひどい暮らしで、彼らの歌は非常にデリケートでセンチメンタルなつぶやきが多いことに気づきます。
1916年に、500曲を281人の歌手が1600ヴァージョンで歌っていることに衝撃を受けたセシル・シャープが、「アパラチア地方住民のフォーク集」を出しました。 アパラチア音楽のルーツは1740年、ヨーロッパでワルツとポルカを取り入れたフィドリンスタイルに遡ります、そのテクニックを取り入れたフォークソングがアメリカへイギリス、スコットランドとアイルランドから来た難民たちの間で流行っていました。1900年からアパラチア炭鉱で働く黒人、中国人、チェロキー・インディアンも加わり、伝統楽器バンジョーが採用され、ブルーノートが導入されたといわれます。
ローマックス親子は1933年のある日、ルイジアナ州にある悪名高い刑務所を訪ねました。かつては、刑務所という場所はある意味掘り出し物に出会う可能性が高い場所だったようです。刑務所では犯罪者だった通称レッドベリーの歌に驚かせました。彼はもの凄い数の歌を記憶しており、それを見事に歌ってみせたり、ブルースだけではなく、歴史上の出来事を伝承したバラッド、奴隷たちや囚人たちが歌っていた労働歌、言葉を伝えていた伝道師たちの宗教歌、各時代毎の流行歌など、あらゆる種類の歌を記憶していました。レッドベリーの歌に絶賛したローマックスの力で1934年彼は再び特赦を得ることができました。その後、ローマックスは彼をニューヨークへつれて帰り、レッドベリーは音楽ビジネスでデビューを飾りました。

1922年にフィドルの弾き語りエック・ロバートソンの「オールドタイム・ミュージック」がレコーディングされました。 1923年にはジョン・カーソンがヒルビリーを2曲カットし、1924年には歌手ライリー・パケットがスイス・オーストリアのアルプス山脈の伝統技術ヨーデルを導入、その直後に放浪のミュージシャン、ジミー・ロジャーズがハワイアン・スライドギターを使ってブルース奏法を開発しました。彼は15歳で家を出てサーカスなどの一団に加わって、南部各地を放浪生活を送り、その間に各地で出会った音楽をどんどん吸収して行きました。鉄道の敷設作業をする黒人たちの雑用係を勤める時期もあり、黒人たちと付き合いながらブルースの歌唱法やギター奏法などをマスターして、メディスン・ショーで顔を黒く塗って黒人に扮してバンジョーを弾く仕事もこなしました。1933年に34歳という若さでこの世を去った彼の才能こそが、アパラチア地方の民謡をポップスへと現代化、大衆化することができた最大の理由だったのかもしれません。1925年、ナッシュヴィルではカウボーイ音楽専用のラジオ・プログラムが放送されました。その放送局が現在の「グランド・オール・オプリー」です。
1931年、うたうカウボーイという愛称のジーン・オートリーは「シルヴァーへアードダディー」でホンキートンク音楽を導入しました。
同年、煙草屋だったミルトン・ブラウンが綿花農民だったボブ・ウィルスとともに、家族を養うためにパイ下地メーカーを宣伝して各地を回りました。始めはストリング・バンドを使い、後にドラム、テナー・バンジョー、ピアノ、アコーディオン、スティール・ギターらが加わって、ジャズ・バンド形態をととのえヒルビリーに、ブルース、ケイジャンなどの音を取り入れてホットなビートを楽しませました。当時ドラムセットを使うことはたいへん珍しいことでした。ここからウェスタン・スイングというノリの良いダンス音楽が生まれています。ただし、ウェスタン・スイングはこの二人に始まった訳ではなくて1930年以前からアメリカ南西部を中心に人気のあった音楽で、ボブ・ウィルス以外にも多くの名手が輩出していてその歴史は部厚い一冊の本が出来るくらい深い歴史を持っています。
1933年、マンドリンの名手ビル・モンローが「ケンタッキー・ワルツ」でブルーグラスが広めました。兄弟とギター、クラシックマンドリン、フラットマンドリンのトリオ「モンローブラザーズ」を組んでいろいろなジャンルの音楽との融合を試みたりして1945年には、マンドリン、フィドル、ギター、ベース、アコーディオン、という楽器編成になってブルーグラスという一つの音楽形態を世界中に広めました。

1935年に「ヒルビリー」音楽と「フォーク」放送演者としてロサンゼルスで名声を得たウディー・ガスリーは、1912年オクラホマ州の田舎町オキーマに生まれました。オキーマは、砂嵐や竜巻に襲われ、彼の家も竜巻によって飛ばされたことがありました。
1930年代の大不況時代に入ると家族は財産を失い、竜巻に飛ばされ、ウディーの母親が精神病院に入院、そこで息を引き取ってしまい、父親は肉体労働者として働きますが、家族を養って行けず、ついに家族はバラバラになってしまいました。ウディーは、住む家のない浮浪者のような生活を始めますが、ある日親戚から西海岸に来ないか?という誘いを受け、一人カリフォルニアへの旅に出ます。そして、この時から彼のホーボー生活が始まります。この旅で知り合った果物農家を巡る移動農業労働者の家族たちとの交流は、彼に大きな感動を与え、「怒りの葡萄」ジョン・スタインベック作の影響の元、「砂嵐バラッド集」としてアルバム化されます。西へ旅することで作られてきたアメリカの象徴を表す彼の生き方は、ジャック・ケルアックの「路上」に代表されるビート世代へ、ロック世代へと受け継がれて行くことになるのです。
定まった住所を持たず 働きながら汽車を使って移動して行く移動労働者を「ホーボー」と呼びます。単に汽車にただ乗りしながら放浪する旅人は「トランプ」と呼ばれています。そんな放浪者たちが旅をしながら見たこと感じたことを歌にしたものが、1930年代の大不況時代に数多く生まれました。それはカントリーやブルースをもとにギター一本で歌われたフォーク・ソングのプロトタイプでした。ほとんどはレコードなどに記録されることもなく、ほとんどは歴史の影に消えき、一部はローマックス親子の地道な努力によって、記録として残されました。ウディー・ガスリーは、「記録された歌」とは別に、生きた歌としてずっと自由のための抗議としてホーボー・ソングを歌い続けました。 それだけでなく、厳しい労働環境と低い賃金に苦しむ人々のために抗議の歌「プロテスト・ソング」を歌い、病に倒れるまでその姿勢を貫き通しました。いつしか彼のそんな生き方に感動した若者たちが彼のもとを訪れるようになり、彼らは後に「ガスリーズ・チルドレン」と呼ばれるようになります。
ガスリーともう1人、音楽を通して社会的発言を続けるシンガー・ソングライター、ピート・シーガーがいました。彼は共産主義的な歌詞のプロテスト・ソングを歌い続けました。

1948年は色んな意味で決定的な年です。
ピート・シーガーはこの時、『フォーク・リバイバル』を呼び起こし、全米の何千人もの若い歌い手がニューヨークのグリーニッチに集って、ジャズとフォークミュージシャンが同じクラブで演奏するようになり、互いに影響を与え合いました。ここに暮らすインテリはジャズとフォーク両方とも聴いていました。
同時に『フォーク』と『レイス』レコードのビルボート・チャートができました。レコード会社は積極的にこの両ジャンルを売るようになり、ラジオ局では『トップ40』がプロモートされるようになりました。
又、この頃には人々がエキゾテッィクで落ち着いたサウンドを求め、イージー・リスニングという新しいジャンルも生まれました。ブロードウェイでは異国情緒あふれたサウンドが流行り、ロジャー&ハマーシュタインの曲が大ヒットして、レス・バクスターの「リチュアル・オブ・ザ・サヴェージ」でイージー・リスニングの楽曲物が導入されました。
もう一つ、ポップスに大きな影響を与えたのがジョン・ケージによって考え出された作曲法偶然の音楽でした。易経などの東洋思想に影響を用いた 「偶然」の考えを作曲に取り入れた作曲方法は、サイコロであったり、ハプニングであったりり、易経であったりします。「偶然」 の考えを演奏に応用したものが [ プリペアード演奏 ] と呼ばれる演奏方法で、ピアノの弦にボルトやナット、ゴムなどを挟んで弾くことで、ピアノ本来の音色を変えるという方法です。この非楽器的な方法やエレクトロニクスに使用で、ケージは既存の方法や考えを破ろうとしたのでした。彼に直接影響受けたアーティストたちは、フランク・ザッパ、坂本龍一、オノ・ヨーコ、ローリー・アンダーソン、ブライアン・イーノなどです。
1917年ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが初の商業用レコードを発表しました。初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭のダンス音楽に影響を受けて、古典的なヨーロッパの音楽理論を取得したアフリカ系黒人ミュージシャン又はフランスと黒人の混血が酒場、レコードやラジオの普及に集って発展させていったそうです。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、幅広い層に受け入れられました。混血のことをクレオールと呼びますが、白人、クレオールそして黒人が同じ音楽を弾いて「ジャズ」が生まれるのです。
その頃迄のブルースは、ギターやバンジョーを弾きながら歌うカントリースタイルが普通でしたが、バンドをバックに歌う歌手が、1920の初めてのプルースレコードとともにデビューしました。「クレイジー・ブルース」 を歌うメイミー・スミスは 「ブルースを初めてレコーディングした黒人女性」として驚異的に売れ、以後も彼女の出すレコードはよく売れました。その後も彼女を競う他の黒人女性シンガーの多くが、 ホーンを配したジャズ・バンドを従えて活躍しましたが、彼女達はしょせんヴォードヴィル出身のシンガーだったのです。南部生まれのブルースが都市部の楽譜出版に流入したということは、ブルース形式の定着という面にも大きな影響がありましたが。
本当の意味でのブルース・レコーディングはテキサスのブラインド・レモン・ジェファーソンの1926年が最初のようです。以前から弾き語りのカントリー・スタイル歌手はたくさんいたようですが、彼のおかげで数々のカントリー・ブルースがレコーディングされ、南部の音楽(ブルースだけでなく)がレコ-ドとして紹介され始めます。
1900年代初期に南部の安酒場や売春宿でブルーズと血縁関係にあるブギウギが発達しました。旅回りのピアノ奏者は、安酒場や売春宿で、ぼろぼろで音程がおかしくなったアップライトピアノを弾きました、走る列車のカタコトいう音を左手でまねました。実際、最初のブギウギレコードは、ミード・ラックス・ルイス の1927年の「ホンキー・トンク・トレイン・ブルーズ」でした。ブギウギという名称は1920年代にシカゴで付けられたと言われます。
1936年、ロバート・ジョンソンがレコードデビューしました。
40年代に入るとジャズが売れなくなり、レコードセールスを上げることに夢中なユダヤ系セールスマンがいました。レコードショップの経営者、レオ・ミンツです。彼は「よく店の前を通る人が、リズム&ブルースがかかっていると踊り出すのを観て、未来の音楽はこれだ!と見込んだ」と考え、「ロックンロール」というジャンルを作って、1949年にかのディクジョッキー、アレン・フリードにラジオで初の ロックンロール曲をオンエアさせたそうです。実際、ロックンロールはリズム&ブルースだけでなくジャズ、ポップス、カウボーイ音楽、カントリーそしてフォークまでを含む商業音楽だったのですが、一般的に「レイスミュージック/R&Bを白人に買わせるために『ロックンロール』と名付けた」と言われます。しかしこれはそもそもブラックスラングであったわけで、そのことを誰でも知った上で、買った、という事実を考えると、白も黒も関係なかったのでは?1922年にトリクシー・スミスが「MY MAN ROCKS ME WITH ONE STEADY ROLL 」と歌っていますが、その後も沢山の黒人音楽の歌詞にはセックスと踊りを意味するROCK AND ROLLが出てきます。「ロックンロール」という語彙は、誰の耳にもブラックスラングに聞こえて当たり前だったんです。たとえエルビス、ビル・ヘイリー等のホワイト・アメリカンがロックンロールを歌っていたとしても、大衆は「黒人っぽさ」を求めていたんです。

アレン・フリードはポピュラー音楽界に「ロックンロール」と同時にブラックミュージックを広めまました。彼は自分のラジオ番組では自分の名前を言わず、番組のオープニング曲には、あのNYのストリートミュージシャン「ムーンドッグ」の「ムーンドッグシンフォニー」を流しながら「俺はムーンドッグだ!」と言って、ロックンロール曲を紹介するのでした。警察を攻撃したり、レコード会社から大量の賄賂を受け取ったり、作曲者のクレジットに自分の名前を載せさせる、等といった商業わいろを続けた果てにラジオ局からクビになり、43歳でアルコール中毒に伴う肝硬変で亡くなりました。法律の問題と賄賂のスキャンダルにも関わらず、彼はジャンルとしての「ロックンロール」の「生みの親」として、ロックンロール・ホールオブフェームに就任させました。リトル・リチャード、チャック・ベリーをはじめとするアフリカン・アメリカンの著名ミュージシャンはアレン・フリードを「黒人音楽とポピュラライズさせてくれたパイオニア」と呼び、絶賛しています。彼こそが「ロックのルーツはブラックミュージックである」、という説を世に広めた男なのです。

ムーンドッグ

盲目作詞・作曲家、宇宙論者、楽器開発者、マルチプレイヤー、シンガー、ムーンドッグ(1916-1999)の本名はルイス・トーマス・ハーディン。彼の達成したことはどれを見ても時代を先立っていまたが、彼はエンターテインメントも社会も避け、ニューヨークのストリートでの生活を選びました。5歳の頃、段ボール紙をドラム代わりに叩いていました。農作業で失盲して専門学校で音楽を学びました。彼の専門はネイティヴアメリカンの音楽でした。1940年から1974年までのあいだ、ニューヨークの53番街から6THアベニューの間を廻って音楽と朗読を続けていました。それは52番街のすぐ近くであったため、ジャズミュージシャンに強い影響を与えていたそうです。クラシックやジャズミュージシャンからの共演のオッファーもあったそうですが、彼はストリートで演奏することを望んでいました。
ムーンドッグは大勢のロックミュージシャンに影響を与えました。ディクジョッキー、そして「ロックンロールのジャンルを作った人物」アレン・フリードは自分のニックネームをムーンドッグにしてしまい、「ムーンドッグコロネーションボール」という初のロックンロールコンサートを開きました。かの有名な英国バンドは「ザ・ビートルズ」として出世する前にJOHNNY AND THE MOONDOGSというバンド名でした。しかしオリジナルのムーンドッグはこの人しかほかにいません。

ロックについて調べると、よくこんなことが書かれてますね。
『ロックはジャズ、ブルース、リズム&ブルースといった黒人音楽とカントリー&ウェスタン、フォークといった白人音楽の混合だ。人種差別が強かった当時、白人にも買わせるために黒人音楽がロックンロールという名前で商業化された』
べつにどうということのない、無害な文章に見えることでしょう。しかし、多少とも事情を知る人間にとっては、これは驚くべき偏見で、さっそく各ジャンルのミュージシャンを調べてみると、必ずしもジャズが黒人音楽、フォークが白人音楽だとは限らないことが判明されます。その発見を知らせても、リトル・リチャードは

「俺たち(黒人)が俺たちの音楽、R&Bに赤ん坊を生まれさせた。それがロックンロールと名付けられた」と断言してきたことに今現在まで誰も意義を現していません。長年の間私どもの聖書でもあったマイルス自伝で彼自身はこんなふうに語っています:
『白人はいつもオレたちの音楽を真似ることによって有名になった。チェット・ベイカーなんて奴が俺の音を半スピードにも至らない速度でコピーして西海岸で「クール・ジャズ」というジャンルを作ったらしいが、「クール」は俺の発明だったんだ。』
両者とも半分、当たっています。R&Bからロックンロールが生まれた、という点では、しかし、R&Bが黒人音楽であり、ロックンロールが白人向けの商業品だとしたら、何故あれだけ沢山の白いR&Bミュージシャン、黒人ロックンロール・アーティストがいて、更にはロックンロールのもう一つの生み親、カントリーに関してはどうなるのでしょう?クール・ジャズに関する説は長年、信じてきましたが、どうやらこれもマイルス個人の白人に対する憎しみに基づくことがわかります。確かにマイルスが「バース・オブ・ザ・クール」によってジャズに「クール」という形容詞をつけたのは本当のようですが、これこそソー・ホワット?と言ってやりたいところです(笑)。音楽的にマイルスが発明、チェットが真似た、とマイルスが断言する程にカンタンな話ではありません。私は長年にわたってマイルスのファンでしたが、自分の好みはどうでもよく、欧米にはコピーでもパクリでも全く無く、優れた音楽パイオニアが黒人と限らない、中でもチェット・ベイカーは、トランペット奏者としてだけでなく、ボーカリストとしても素晴らしかったのだ、ということを知っておくべき事実です。
プレスリーに関しては、誰もが「彼は黒人音楽を商業化(つまり白人にも受け入れさせるような)する第一人者だ」と言います。強いてロックンロールの代表的アイドルをあげるとしたら、それはプレスリーです。でもってプレスリーがブラックを商業化させた、という説は部分的に当たっていますが、実はプレスリーはカントリーの血も引いています。そして彼自身がオリジナル曲を書いていたにもかかわらず、どちらかというと他人のカヴァーによって注目を浴びたのも事実です。そのカヴァー曲が決してブラックアーティストのカヴァーではなくて白人ソングライター組、マイク・ストーラー&ジェリー・リーバーの作品です。皮肉なことに、ストーラー&リーバーは次々のリズム&ブルースの名曲を書いて、多くの黒人ミュージシャンを世に出しました。ストーラー&リーバーは、エルビスを世に出したこと、そしてビートルズやストーンズが彼らのカヴァーによってアメリカ音楽を英国に導入したこと、ここまでは誰でもなんとなく知っていることだと思いますが、彼らが古い黒人アーティストにジャズ、ブルース、ソウルのスタンダード・ナンバーを提供してきたことを、メディアは忘れがちです。エルビスは黒人音楽を真似た初の白人アイドルだ、と言われますが、実際の彼はジミー・ロジャーズとビル・モンローに非常に影響を受けていて、米国カントリー・ミュージック・ホール・オブ・フェイムに就任されています。

ファッツ・ドミノ、 ジミー・ウィザースプーン、フロイト・ディクソン、チャールス・ブラウン、プレスリー、ビッグ・ママ・ソーントン、コースターズ、ザ・ドリフターズ、 ベンE.キング、 シャングリ・ラ、ルース・ブラウン、アレサ・フランクリン、ザ・スピナーズ、ワンダ・ジャクソン、ザ・クローヴァーズ、ジョー・ターナー、マーサ・ワッシュ、ジェームス・ブラウン、キング・カーティス、スクリーミン・ジェイ・ホーキンス、サミー・ターナー、アイク&ティナ・ターナー、リトル・リチャード、リック・ジェームス、ジミ・ヘンドリックス、マディー・ウォーターズ、ルー・ロールス、ボビー・ダーリン、ルーサー・ヴァンドロス、BBキング、オーティス・レディング、ペギー・リー、リトル・ミルトン、ジョー・ウィリアムズ、 ブレンダ・リー、カーメン・マックレー、ビートルズ、ストーンズ、ビーチボーイズ、彼らは皆だれの曲をカヴァーしたでしょう。マイク・ストーラー&ジェリー・リーバーなんです。二人は1933年生まれ。学生時代、ロサンジェルスのレコードショップの店員としてバイトしていたジェリーとジャズバーでピアノ奏者としてバイトしていたマイクが出会い、二人ともブルースとリズム&ブルースが好きで意気投合し、1950年にジミー・ウィザースプーンのために『リアル・アグリー・ウーマン』を書いてデビューしました。同時にチャールズ・ブラウンのために書いた『ハード・タイムズ』が大ヒットし、R&B的な音楽にポップな歌詞をのせたことで、ポップス界に大影響を与えました。
最も多くのアーティストたちにカヴァーされた曲:
アイ・ハヴ・ナッシング
アイ・キープ・フォーゲッティン
アイム・ア・ウーマン
イズ・ザット・オール・ゼア・イズ
刑務所ロック
カンザス・シティー
サム・アザー・ガイ
サーチン
ダンス・ウィズ・ミー
フットステップス
チャーリー・ブラウン
ラブ・ミー
ラブ・ポーションNo9
オン・ブロードウェイ
ルービー・ベイビー
スパニッシュ・ハーレム
スタンド・バイ・ミー
ハウンド・ドッグ
ヤング・ブラッド

カート・ウェイルの音楽をカヴァー、又はそれに影響を受けたミュージシャン

ルイ・アームストロング、
チャーリー・ヘイデン、
ソニー・ロリンズ、
ビリー・ヴォーン、
ビング・クロスビー、
エラ・フィッツジェラルド、
ケニー・ドーハム、
ベン・ウェブスター、
フランク・シナトラ、
カーラ・ブレイ、
ペギー・リー、
スティング、
ロジャー・ダルトリー、
ジミー・バフェット、
ブライアン・ゼッツァー、
ロビー・ウィリアムズ、
トニー・ベネット、
ディーン・マーティン、
ウテ・レンパー、
ボビー・デアリン、
ビル・ヘイリー、
レナード・コーエン、
ドアーズ、
トム・ウェイツ、
デビッド・ボウイ、
ニック・ケイブ、
マリリン・マンソン、
ドレスデン・ドールズ、
トッド・ラングレン、
ルー・リードなど。

フォーク歌手・作詞家・作曲家ウディ・ガスリーに多大な影響を受けたと宣言しているミュージシャンたち:

リッチー・ヘイヴンス、
オデッタ、
アニ・ディ・フランコ、
インディゴ・ガールズ、
ジューディー・コリンス
ランブリン・ジャック・エリオット、
ボブ・ディラン、
ピート・シーガー、
ビリー・ブラッグ、
ジャニス・イアン、
ナンシー・グリフィット、
マーティー・スチュアート
ガイ・クラーク、
ドノヴァン、
トム・パクストン、
フィル・オクス、
ジョーン・バエズ、
ジェリー・ジェフ・ウォーカー、
アーロ・ガスリー、
ライ・クーダー、
ブルース・スプリングスティーン、
ビリー・ブラッグ、
ベック